ある透明な日。気付いたこと。

 これはある若者の話です。彼の名前は仁といいました。彼は最近の若者らしく、彼女を作ったり、自分にいやになったり、ポテトチップスを食べたり、彼女と別れたりしていました。兎に角、ちょっと思慮深い感じの大学生を思い浮かべれば彼が出来上がります。彼はそれなりにいい服を着、それなりにいい大学に通っていました。女の子にもそれなりに人気があり、勉強もそれなりにできました。はたからみれば彼は何も不足のない人生を送っているように見えました。そんな若者の話です。

・・・彼女からの連絡が途絶えてもう3日にもなる。何があったのだろう?携帯にメールを送っても返ってこないし、電話をしてもとってくれない。付き合って1年になるが、過去にもこういうことが何回かあった。僕はこういったことに慣れることはできない。僕が一生懸命彼女のことを思っているのに、彼女から連絡がないということは僕をとてもいらいらさせる。なんで彼女は僕に、簡単な連絡をよこすこともできないんだ?もしくは彼女は他に男を作ってしまったのだろうか?
「仁君、何してるの?」
かすみが僕に話しかけてきた。かすみとはある勉強サークルで一ヶ月前に知り合ったばかりだった。しかし試験が近いこともあり、僕らは毎日のように一緒に時間を過ごしていた。僕はかすみが少し気に入っている。彼女はかわいいし、話もうまかった。
「いや、なんでもない。ちょっといらいらしてるだけなんだ。」
「そっか。今から映画にいくんだけど、良かったら一緒にこない?」
僕はまだかすみに僕には彼女がいるということを伝えていない。それは意図的に伝えていないのではなくて、そういうことを伝えるほど知り合ってから時間がたっていないというだけだった。かすみは少し心配そうな顔をして僕の返事をまっている。そういう仕草は僕をうれしくさせた。僕の彼女のことが頭をよぎった。でも映画ぐらいいいだろう。そもそも連絡をよこしてこない彼女が悪いのだ。ちょっと友達と映画を見に行ったぐらいで僕を非難することなどできるはずがない。 
「いいよ。どの映画見に行くの?」
そうして僕らは映画を見に行った。映画はハリウッドの、あまりぱっとしない感じの映画だった。でも映画は気楽なものでとても楽しかったし、かすみと一緒に時間を過ごすのは悪くなかった。彼女は僕と話している間、とても嬉しそうにしていた。かすみは僕に気があるようだった。彼女のちょっとした可愛らしい仕草や、何かの折に触れる肌は、僕の心をくすぐった。僕には浮気をする気などさらさらなかったが、そう考えることは自分のとっている行動の正当化でしかなく、浮気をするという可能性が存在することを、見てみぬふりをしているだけだった。僕は頭の片隅でぼんやりと、このまま彼女と寝ることもあるのだろうか、と思った。
僕は大学生になってから、あまりしっかりとした生活を送っていなかった。僕に気がありそうな女の子と寝て、そんな女の子を彼女にし、何かの拍子に振ったり振られたりした。誰かを振るたびに、僕はなんとなく投げやりな気分になり、誰かに振られるたびに僕は人間不信に陥った。そしてそういう経験をするたびに僕の中には少しずつ、薄い青みのかかった記憶がたまっていき、僕を侵食していくようだった。その記憶は僕の外にまで出て行き、僕という存在を外界に溶かしていった。そうやってだんだんと僕は自分の在りかや、自分の存在といったものをはっきりと認識できなくなっていくようだった。僕は何がしたいのか、そして何が正しいのか。そういう生活を送っていると、不思議に僕の大学での成績も落ちていった。現実的に勉強をおろそかにしたというわけでもなかったが、その不安定な生活は、不安定な精神状態を作り出し、論理的な思考を錯乱させた。僕は自分の中に芯がないように感じた。勉強だとか人間関係だとかが、みんな一緒になって僕をばらばらにしてしまおうとしているように思えた。実際、このかすみとの関係も、彼女との関係も、そんな企みの一部分でしかないように思えたのだ。
映画館を出ると、二人でソフトクリームを食べた。こうやってソフトクリームを食べながら町の中を歩く高校生のカップルや、コスチュームを着た携帯機の販売員などを眺めていると、ふっと僕が初めて手をつないだ女の子のことを思い出した。彼女は僕が付き合った初めての相手でもあった。僕は若く、幼く、未熟で、可能性を探っていたのだ。しかし僕がそうしているうちにその彼女は他に男を作って僕を去っていった。僕は彼女の手の感触を今でもありありと思い出すことができた。彼女の手はしっとりとして、悲しいぐらいに暖かく、やさしかった。彼女が去っていってからその彼女のことをいとしく思うことは全くなかったが、その手の感触を思い出すたび、僕は涙を流さずにはいられなかった。その手は、僕は、とてもナイーブで美しかった。どうして彼女は僕を去っていかなければならなかったのだろう?僕は彼女のことが好きだったのだ。
「おーい、仁君、何考えているの?」
僕は急に現実に押し戻されて、少しびっくりしてしまった。
「いや、ちょっとね。」
「そっか。ねぇ、ちょっとゲーセンにでもいこうよ。」
そういってかすみは先に立って歩き始めた。彼女の持っているピンクのバッグは、僕が僕の彼女にあげたバッグにとてもよく似ていた。そして僕は自分の彼女のことを思い出して不思議な気分になった。なんとなく悲しいような、なんとなく気が引けるような気分だった。

「じゃぁ、私、M君と勉強会があるから帰るね」
いくつかのゲームをしてゲームセンターを出たときにかすみがそういった。僕は拍子抜けがしたように感じた。僕は何かが起こるのを期待していたのだ。人は何かを期待すればかならずがっかりする、そんなものなのだ。それは数学の定理に近いようなもので、法律が破られるためにあるように、期待は裏切られるために存在した。僕が愛した人間は僕を去っていき、そして僕は僕を愛してくれた人間を去った。
「そっか、じゃぁね」
僕はそういって、別れをつげた。そして僕は駅に向かうかすみの後姿をしばらく見届けてから家に向かった。彼女は男と勉強会があるという。僕には彼女がいたし、かすみは友達以上の関係では決してなかったから、僕ががっかりする理由などなかった。でも理由があろうがなかろうが、僕はがっかりした。それに僕はむらむらとした気分をどうすることもできなかった。どうして僕はこんなに喜んだり悲しんだりしなければならないのだろう? 僕はなんだか気分が悪くなった。誰を責めることはできない。それは全て自分の責任だった。
僕は気持ちを整理するために、明日の化学の試験のために勉強することにした。そういえばこうやって腰を落ち着けて有機物質の反応を覚えるのは久しぶりのことだった。既に完成された理論に則って反応を理解し、いくつかの例外を論理に基づいて理解しようとするのは意外にもいい気分だった。そこには僕の人生にかけていた正当性だとか、確固としたものが存在していた。期待した結果は姿を表し、そして期待はずれの答えはむしろ僕をわくわくさせた。そうやって一つ一つ勉強をすると、僕が人間関係の中で失ってきた、僕自身の輪郭をわずかながらも取り戻せた気がした。でもその輪郭が、本当に僕のものなのかは自分でもわからなかった。もしかしたら僕は、自分という存在から逃げて、何か確固たるもので僕の周りを覆っているだけなのかもしれない。僕という一人の人間の存在は、いつまでも確固たるものにはなりえないからだ。僕はいつも流動的で、何かどろどろとしたものに引きずられ、世界の亀裂に落っこちしまうような個体だった。
しばらくすると不思議と気分の悪さも軽減したようだった。窓から外を見ると、青空が見えた。外は光に満ちており、とても、そう、とても美しかった。外を歩く人々の顔はきなしか幸せそうに見え、それを見ている僕も微笑まずにはいられない、そんな光だった。僕は外にでることにした。

僕の家の近くにはとても大きな公園がある。その公園には木がたくさん茂っていて、公園自体は端から端まで歩くのに15分もかかる広さであるのにもかかわらず、こじんまりとした雰囲気を作り出していた。今日みたいな日には、木の作る木陰がとても気持ちいい。木陰のベンチに座って化学の本を読んでいると、かわいらしい、子供の高い声が聞こえた。僕が顔を上げると、小さな子供がこちらに駆けてきているのが見えた。その子供の後には両親らしき人間の姿も見える。その親子の姿を見ていると、僕はなんとなくほっとした気分になった。彼らの存在はとてもはっきりとしており、それでいながらとても穏やかだった。子供のちょっとした仕草や、両親が子供に対してかける言葉の一つ一つから朗らかな優しさを感じ取ることができた。子供はとても小さくてナイーブだった。その子供の両親はそんなナイーブな小さな子供を、柔らかいけれども決して破ることのできないベールで抱擁しているように見えた。それは町の中で見たカップルの、なんとなく危っかしげな雰囲気とはとても対照的だった。美しいものとはこういうもののことをいうのだろうな、と僕は思った。もしこの世の中に正当性だとか、正しさだとか、美しさだとかが存在するとするならば、この親子の存在こそがそれだった。そして彼らの姿を見ている僕はとても幸せだった。彼らは今日という日の光に相応しかった。光は僕にほほえみを運び、彼らは僕に心の温もりを運んだ。その心の温もりは、僕に彼女のことを思い出させた。彼女は今、どこで何をしているのだろう?僕は彼女に無性に会いたくなった。

僕は今まで何をしてきたのだろう?今まで付き合った女の子が脳裏をよぎった。僕が振った子、僕が振られた子。僕は今まで、なんと愛されるということを軽く扱ってきたのだろう。僕はあまりに身勝手に振舞いすぎていたのだ。それでも誰かが僕を好きでいてくれた、その事実は僕の瞼を熱くした。しかし幾人かの女の子たちが僕を振ったように、僕は彼女たちを振ったのだ。僕はふと思った。もしそういったことがこの世で繰り返され、そしてありとあらゆる正当性だとかいったものが破られる運命にあるのだとしたら?もし、子供のようなナイーブな思いは、この世の中では打ち砕かれる運命にあって、生き延びることができないとしたら?現に僕は、僕を愛してくれた人の真っ直ぐで綺麗な思いを裏切り、そして僕のナイーブな初恋の思いは、失望に変わった。僕の人生はあまりに孤独で寂しすぎたのだ。少なくとも今の彼女に会うまでは。

彼女に会う前の僕はとても混乱していて、何もかもがどうでもよかった。そもそも自分というちっぽけな存在がこの世の中で何をしようと、何も変わらないのだし、僕はこのまま混乱しつづけるものなのだと、ぼんやり考えていた。歌を歌って叫んでみても、スポーツをして地面を踏み鳴らしてみても、この世界が僕に対しては何の反応も示さないように感じた。僕という存在は地球の緯度三十五度の上で置き去りにされ、ないがしろにされていた。でも、僕が今の彼女にあってからは何かがはっきりとしたような気がしていた。彼女と一緒にいると、彼女の笑顔を見ていると、僕の頭は明るみにだされ、自分という存在があたかも、形のあるもののように思えた。おそらく僕の中で何かの結晶が実ったんだと思う。その結晶はダイヤモンドのように透き通っていて、硬いわりに、ゴムのように弾性があって、壊れなかった。そしてその結晶からはとても明るい光が満ち溢れていた。その結晶は色を変え、形を変え、僕の心をよぎっては僕の心を照らした。そんな結晶はちっぽけだったけれども、僕の中で存在し続けた。

そう、僕は彼女のことがとても好きだった。彼女の胸は小さかったし、少しそっけないところがあったけれども、そんな彼女のことが好きだった。僕らは幾度となく喧嘩をしたけれども、僕は暇があれば彼女のことを考えて時間をすごした。恐らく僕は人生の中で始めて、誰かを喜ばせるために、誰かの笑顔を見るために時間を使った。僕は人生の中で始めて誰かの誕生日を覚えた。考えてみれば、彼女が3日間、僕に連絡をよこしてこないなんてことはほんの小さな出来事だった。僕は思った。僕の初恋のナイーブな思いを打ち砕かれたからこそ、僕は彼女のナイーブな思いをしっかりと抱擁して、失われないようにしてあげたい。期待が失望に変わるのが僕の人生ならば、彼女の期待を喜びに変えてあげたい。そして彼女がその儚い人生の中で孤独に感じることなく生きることができたならば、どんなにいいだろう。

未来のことはわからない。ただ一つはっきりしているのは、僕は彼女のことが好きだということだけだった。だから僕はゆっくり歩いて、たくさん水を飲もうと思う。ここは暖かかった。春の風が僕の傍をゆっくりと通り過ぎていった。


終わり

引用:村上春樹アフターダーク

This story is dedicated to and written for my girlfrind. 05/06/2005,U.S.
...maybe not now that I am not sure if I have a girlfriend at all anymore. Maybe it was just my optimism that made me hope that it's my gf who wants to understand what I think, how I think and who I am. This time, I want to re-dedicate this story to anybody who enjoys this and to anybody who's willing to see me through this story. 僕に元気をくれる人々に本当に感謝の気持ちを表したいと思います。You know who I am talking about. 06/17/2005, Japan