おごり

 昨日はテニス部の先輩とチャット。中学一年と二年の時は彼とほんまによく遊んだ。笑いのつぼとか、麻雀の仕方とか、ほんま彼と共有したものは数知れない。僕がテニス部を止めてから、すごい彼とは距離が離れた気がしていた。というより、テニス部を止めてからの自分の変わりように自分自身があまり追いつけてなかったのかもしれない。結局、彼を含め他のテニス部の先輩らと交流するうち、なんだ、やっぱり俺らって、共有するもの多いやん、ってことになったんやけど。

 そんな彼と話したのは「人が好きな人間」と「数学が好きな人間」の違い。僕は明らかに後者で、数学が好きな人間。先輩は人が好きな人間。ここでのすき、っていう意味は違うけれども、自己満を得る場所、という意味で共通するんちゃうかな、っていう話をした。
 何度もこの日記でも書いてることやけど、僕は基本的に一般論や具体性を伴わない話を拒む。僕が彼にその話をしていたら、彼は「それやったら人と話できひんやん」。確かにそうだ。僕は最近、自分が人との交流がうまくないのではないか、と思うことがよくある。特に僕が他の人に数学や物理の面白さを伝えようとする際に、彼らの、「でも自分は数学とか物理は好きちゃうな」という態度にうまく対処できないのだ。どうしてもむかっときてしまう。そして僕の論理はこうなってしまう。彼らは数学のsの字も知らない。ちょっと微積分ができて、もしかしたら微分方程式ぐらい解けるのかもしれない。東大にいってて、東大の入試問題が解けるのかもしれない。でもそれって全然数学と物理の本質とは関係ない。彼らは数学の面白さを知りもしないのに面白くないといっている、ものわからずやだ。
 確かにこの論理は間違っていないと思う。数学や物理の難しさっていうのはつまり、本気でやらない限り面白さが見えてこない、本気でやるには面白さを知っていないと難しい、という矛盾点にある。
 でもテニス部の先輩が言っていたのは「俺らは今までの過程の中で二つの違う道をたどってきたわけやろ。で、違う景色を見てきたわけやん。お互いにそれなりの景色をみてきたわけやからそれぞれ自信があって、お互いの見てきた景色を主張する。」ということ。僕がこれではっと気付いたのは、僕は今まであまりに傲慢すぎたのではないか、ということ。恐らく僕には「今まで俺はこれだけやってきた。君はどれだけやってきたん?」というおごりの態度があったのだ。

 確かに僕はそういうおごりの態度とともに「この自信を保つには自分自身に厳しくないとだめだ」という強さで生きてきたのかもしれない。でも僕は僕の先輩が見てきた景色を見るためには、それではだめなのだ。僕はおごりを捨てないといけない。

 それにしてもなんだかんだいって、テニス部って未だに関わり深いなー。きぐちとはまだ遊ぶし、この前はなかたにと話したし(ろくな話はできませんでしたが。ごめん。もうちょいましな話できればよかってんけどな。)