二つ 

金曜から地道に数学のペーパーを書きながら、色々友達と話をした。

 まずはすぎも。コンタクトの話から失明の話へ笑 僕は失明するということをこの世で一番恐れていると話していた。すぎもも、目みえんくなったら何を楽しみにいきたらええんやろな、と同意していた。最近、明らかに不器用に杖を使っている人を見たらしい。生まれつきの失明じゃなかったんかな、そんなことをいっていた。僕は、目の見えない人の話をすると同情以上のことはできないからやめようぜー、みたいなことを言っていた。
 でも僕のその発言をしつつ、僕が同情以上のことをできないのは、僕がそういう人間であるからであることを十分に自覚していたと思う。自分がかわいいあまりにそういった人間に献身することができない。もちろん困った人を見かければ声をかけるし、養護学校にいって文化祭を手伝ったりということはする。そしてできる限りのことをそういう人たちのためにしてあげたいと思う。でもそういった行為は僕にとって「同情」の域を超えるものではないと思う。
 そこには僕の人生は一回しかない。だからこの地球上にいる何万人という目の見えない人たちの中の数人を選んで介護し、一生献身して働くなんてことはできない、という、声には出さないけどはっきりとした考えが僕の底に潜んでいる。
 僕は決して他の人に比べて冷徹だとかいうわけではないと思う。それでも僕は自分が利己的で、自己中であることを知っている。
 そう考えて、僕の幼馴染は、きっとそういうややこしいことを考えずに、まず自分のできることから初めて誰かを助けようとする、助けなければ気がすまない人間なんだろうと気がついた。彼女は極めてナイーブに生きる人間なのだ。だから彼女は僕が理解できず、僕は彼女が理解できないのかもしれない。もしかしたら僕は彼女から学ぶべきことがあるのかもしれない。

 次に幼馴染の家庭教師をしていた人と、南京虐殺の署名集めプログラムについて。僕は先学期、中国からのinternational student と話し、中国人の反日感情はやはり南京虐殺という象徴的な事件からきていること、中国人は日本人を日本人として知っているわけではなく、「日本政府」南京虐殺を認めず、謝罪しない「日本政府」= 日本人としてみていることなどを聞いた。彼自身、中国人の仲には、理屈もへったくれもなくひたすら反日を叫んでいる人がいることを認めていた。彼は僕らの世代が、むしろ南京虐殺について知っており、多くが、おそらく実際に起こったことなのじゃないかと認めていることを知らなく、僕が、多分そうだよ、というとびっくりしていた。
 今の時代は象徴的な「個人主義」だ。ハーバードでもここまで多くの国籍の人間がいる分、国籍で人を判断することはありえない。現在の日中関係はそんな潮流とは全く関係なく、政府間の関係だけで終わっている感が否めない。一年の時に中国の歴史をとり、いかに僕が中国について知らなかったを思い知った。僕のナイーブな考えでは、そろそろ日本と中国は政府間のみならず、国民間の関係をもち始める必要があるのではないか。中国人に、人間、個人としての日本人を知ってもらえれば、短絡的な反日感情は安らぐのではないか、ということだ。もちろん中国政府は国の発展のために一番簡単な国をまとめる方法として反日を用いているのかもしれないが。
 そこで僕が考えたのは、「南京虐殺が(規模がいくらであれ)起こったということを認める」かどうかの署名集め。つまり、日本人から歩み寄ることで、日本という国を構成するのは人間としての日本人であることを認識してもらおうという試み。今日も話していたが、この署名は「意見」を集めるものではない。各個人が、例えば僕という個人が、「南京虐殺は起こったのではないか」と認める「事実」を集めるものだ。
 これに加え、僕がハーバードの生徒であるという事実も公平性を加える。あと日本の学生をプロジェクトに加え、ハーバードにいる中国人なんかの承認を得ることができれば十分アピールはできるのではないかと思う。
 今のところ僕が忙しくてなかなかプロジェクトに手を出すことができないが、是非ともやってみたいプロジェクトの一つです。またみんなにも手伝ってもらいたいと思います。