気をつけましょう

 僕は徹底した結果主義だと思います。つまり何をいってもいいし、何がモチベーションであっても構わない、結局は、それらの総合結果として何ができたかで、人間というものが決まる、ということ。

 こんなところで理系と文系を持ち出すのは偏見にしかすぎないのですが、僕がたまに思うのは、文系は理想主義に走りやすいということ。例えば僕も昔は模擬国連という国連を模擬する活動をしていました。確かに学ぶこともかなり多いし、十分に意義のある活動だとは思うのですが、国連を模擬した結果得られるのは知識であり、それをすることは所詮、自分の「学ぶ」という作業でしかないということです。つまり一生懸命になるあまり、自分のやってることがどこにもつながっていってないことに気付かないことが多い。国連なんてものは外にアプローチしてなんぼだろ、というものなのにもう兎に角内向きな活動を続けてしまう。(模擬国連をやっていらっしゃる方で、その体験をもとに次に大きくジャンプする方もおられますが、そういう人間はおそらく模擬国で満足する、ということはないと思います)
 理系の場合、全ての基準は自分が何ができるか、につきます。この問題が解けるか。幾何というものが何かを表現できるか、説明できるか。この現象を解析できるか、友達とそれをねたにして面白い話ができるか。ここまでは学問に限ったことですが、そういった基準を外に持ち出すことも多いと思います。つまり、例えば中国人が日本人のことを嫌っているが、それに対して何かできることがないか(そして具体的に行動をとれるか)、津波でアジア人が困っているが、何ができるか。そして日本で受験生が大変そうだが、それに対して自分ができることは何か。
 さらに言えばこれらの問題に対して、自分なりに対処すればいい、というのは自分を正当化する言い訳であるようにも聞こえます。結果として問題が解決されていないのに、何もしないよりはまし、と考える思考回路は、つまりは大きな問題を自分だけの問題にすり替えているともいえます。(違う!といいきれ、具体的に自分でしてることをつらつらと並べることができる人間ならばそういうことは少ないかもしれません) 理想論を語るようにはならないよう、気をつけたいものです。中には理想論はだめだ!ということによって、自分が理想主義であることを自分の心の底から否定する人もいますので、難しいですが。
 僕は昔からそういった態度を極端に嫌い、具体的に何ができるか、で勝負してきたように思います。英語ができる、だからどうしたのか? 本をよく読む、だからなんだというのか? その僕の考えの一つの結果として、高校のころはあまり英語の教師が好きじゃありませんでした。つまり、僕にとっては授業料をかすめとる人たちでしかなかったということ笑 かといって他の科目を体系的に教えてくれるわけでもなく(といってしまえば高校教師である科目を体系的に教えてくれる教師などは皆無に近いわけですが、なぜかそのころは英語の教師をすかなかった)、つまり彼らは、何をしているんだと一人思っていました。まぁ、ちょっと後に、この英語教師に対する考えは多少ばかげていることに気付きましたが、それでも根本の考え方はあまり変わっていません。そのために数学や物理が好きだともいえます。
 もちろんこういった結果論を他人に当てはめて人を評価する前に自分自身をそのものさしで図るわけですが(それがあまりreasonableでないものさしであれば、すぐに捨てなければならない、もしくは自分の生き方を改めなければならない)、その結果どう考えるようになったかは、また次回。その結果からも、僕が数学や物理の好きな理由が垣間見えます。

 一言
 もちろんこの議論は皮肉にも、僕の主観によって行われているものということをノートしておきます。この事実も僕の考えの結論に影響を及ぼしています。