ある、夏の、夜の、京大での。

物語は僕が落ち込んだときに始まった。僕が京大のボックスを出ると、外は暗く、涼しく、空には満月が浮かんでいて、とても居心地が良かった。いつもならそこにいるだけでとっても幸せになれるはずだった。でも僕は、ちょっとしたことで気分を落ち込ませ、一度下向きになったベクトルは永遠に加速し、止まる兆しも見せなかった。外を見れば、物理を勉強せずに外で遊びまわっている自分の姿が俯瞰に見えた。あたかも僕という存在がこの世界には溶け込めずに残ってしまったかのように、くっきりと浮かび上がった。この感覚はどうしようもなかった。あんなに居心地のよかった京大のキャンパスも今の僕にとっては見知らぬ土地だった。でも僕らは大文字に向かって歩き出した。僕には、歩くという行為そのものがとても生産的で、きっと一心不乱になって歩けば何かが得られるように感じた。
 僕はそもそも、自分の内面的なことを誰にも話さない人間だった。それはその京都という雰囲気のせいだったのだろうか、それともIのおかげだったのだろうか、僕は話始めた。一度話し始めてしまえば、そこにあったのはいつもの自分の姿だった。いかに僕という人物が、内面的な部分で生きてきたかを思い出させるような、そんな自分の姿だった。
 俺は今めっちゃ落ち込んでる、そう僕はいった。昔はこんな風に落ち込んだりはしない人間だった。留学する前も、たんたんと勉強のできる人間だったし、精神的な活動が、かくにまで大切なものだとは夢にも思わなかった。留学したあとに感情的なアップダウンが激しくなり、物理や数学の勉強をする上において大切なのはやる気だとか、能力だとかいうものよりも、むしろこの精神状態の安定なのだと気付いた。
―なんで落ち込むのか
 人間関係の難しさだと思う。いくら自分が学問の道を歩み、俗世とは一線を引く世界に生きようとしても、俺には女の子の気を引きたいみたいな願望があるみたいや。結局性という問題は精神活動とは切っても切れない関係で、俺はそれはそれとして認めなければならない気がする。
―俺はそんなことがないな。精神状態はかなり安定してると思う。
 やろ?俺も昔はそうやった。その状態の時が一番生産的に活動が行えるんちゃうかなと思う。ただ最近自分の内面をintrospectiveに解析してみて思うのは、俺のようなアップダウンの激しい感情からは、たくさんの学問が生まれてくるということや。俺が面白いと思うのは、それらの学問が世の中のたくさんの人に認められて、価値があるとされていること。でもおかしいやろ、Iの精神状態と俺の精神状態では優越をつけれるはずがなく、単に段階が違うというだけのことやで。俺は単に自分の精神に適応してこのような状態に至っただけのこと。でもその中で俺が見つけ出した学問っていうのはめっちゃ素晴らしいって俺には感じられんねん。更に何が素晴らしいかっていったら、その素晴らしいという感情が世の中の人にも共有されてることやねん。
 その学問の中の一つに文学があんねんけど、俺はこういった自分のことを何らかの形で表現するために文学はあると思うねん。心理学的にいっても、こうやってIと喋ったり、文章として書いたり、することで、気分をよくするという治療法があるけど、それに似た形やと思うねん。文学っていうのは人間が必要に迫られて書くものや。その必死な感じが結晶化するから、文学は人の深いところに触れることができて、素晴らしい価値を持ちうる。絵も音楽もそうやと思う。どうしてもかかざるを得ないという状況こそが素晴らしい作品を生む。そういう意味では芸術家は気分が沈んだ時にこそいい作品を生むともいえるのかもしれへん。
 これらの学問を自分なりに解釈して、価値を見出すためには、例えばIの精神状態から俺の精神状態への移行が必要なわけやん。やからある意味では、気分が沈む辛さと、美しい学問体系の交換、みたいな感じやな。
 俺は理系やから物理とか数学を勉強するけど、これらはみんなニュートン的な、数字の上にのっかってる学問やねん。最近の経済学もそうやし、とにかく、学問をなんでもかんでも数字で表す風流がある。数字で表された学問が最上のもの、みたいな。でも今俺が話しているような学問は絶対に数字とは関係ないもので、俺は、今の学問体系の中で、数字を使わない学問の規定がもう一度なされるべきだと思う。つまり数字を使わない学問で何ができるのか、何のために作られたのか、何の役に立つのかといったこと。もしかしたらこの試みは意味のないもので終わるかもしれない。でもその意味がなかったという結果でさえもが意味のある結果となるのではないかと信じている。
 今俺の話してることはIにはほとんど理解されてないかもしれない。これは俺の自己満足的な独白やな。俺としてはIがこの会話の内容を理解しようと努力してくれていることにとっても満足してるし、Iとしてもこの話の内容が面白いと思ってくれるのならば、それはそれでいいと思う。そもそも俺は人間というのは決して分かり合えないという考えの上に立ってる。というのも、俺が使っている言葉とIの使ってる言葉は全く違うからや。今言葉って言ったけれども、つまり、同じ単語の意味を俺ら二人は違うように捉えているということ。同じ言語を喋って同じ言葉を使うから、俺らはその言葉の意味までもが確固としたものとして存在してると勘違いするけれども、実は俺らが持っている言葉に対する意味体系というものは全然異なってる。なぜなら言葉は一つで用いられるものでないし、思考回路も全然違うから、一つの言葉を聞いたときに連想するイメージなんかも違う。じゃぁ、俺らが認識してる、共通に存在している言語とは何なのか、というと、それは俺らが日常生活において確認しあっている言語なわけや。例えばりんごというものを同じりんごという単語で指し示すからこそりんごという単語が共通言語として成り立つ。その場合でもりんごを認識する仕方そのものが人によって異なるから本当に共通言語であるのかどうかは怪しい。その極端な例として、マジックマッシュルームを食べた状態にある人間の状態がある。俺が経験したことや、友達の話を聞いてると、たった一つのキノコを食べただけで周りのものの風景がゆがんで見える。そのことは体験してみたらめっちゃ強烈な印象として語りかけてくるけれども、その事実は現実というものがいかに不安定で、簡単に歪んでしまうかを物語っている。俺らがこうやって見ている、確固たるものだと思っているものの存在はたったキノコ一つでいかれてしまう。そこで俺とMITの友達とで話してたんやけど、現実とは何なのか、ということや。キノコ一つで歪んでしまう世界に現実、実存するものを定義し直すのは大切なことやと思う。俺らは結局、個人の中には個人の現実が存在して、つまり目の前の例えば俺がみている現実があって、それら個人の現実が重なるところが本当の現実、実存であるという結論に至った。逆に言えば、個人の現実は重なりあわなければならない必然性というものはあまりないわけだから、共通認識された現実は実に不確実なものであり、さらにその中で使われる共通言語というものはより不確かなものだといえると思う。このことはあのキノコを食べてみれば、理解するのではなく体験することができるから、俺にとってはめっちゃショッキングな出来事だったことは容易に想像できると思う。
 こういうこともあって、俺は人間はお互いに分かり合えない存在なんだと考えている。でもな、お互いに分かり合えないことそれ自体はお互いに幸せになれないという意味を持つわけじゃない。お互いに分かり合えないのにも関わらず、人間っていうのは、かかわりあうことで、ある意味表面的な、物理的な接触によってお互いを喜ばせることができるわけや。俺はこのところにほんまに感動する。文学にしても他の芸術にしてもそうなわけやん、俺らは必要に迫られて芸術という形で自己表現をするわけやけど、用いているメディアが共有されていないのにもかかわらず、また、その内容が自分の意図したものと違う風に他人に理解されているのかもしれないのにも関わらず、感動することができる。めっちゃすごいことやで、これは。そういう意味で俺ら人間は共通したものをもっているといえるんちゃうかな。俺ははじめは分かり合えない存在であることにめっちゃがっかりして落ち込んだけれども、そうじゃなくて、むしろ感情の上で共有することができるという事実をもっと持ち上げてやるべきなんだと思う。
 それをもっともよく伝えてくれるのが、よくつまらない恋愛小説とかで書かれる「ちょっとした言葉や仕草でとても幸せになれる」っていう表現ちゃうかな。お互いに分かり合えないからこそ、物理的な接触で相手を幸せにできる事実はより高尚なものになって、その事実は俺らをめっちゃ感動させる。でも良く考えてみたら当たり前のことやねんけどな、俺らは物理的な制限として接触するのはちょっとした会話ぐらいなわけやからな。夫婦の関係やってそうやろ。もちろん物理的な内容で相手のことはよく知ってるかもしれない。例えば好きな食べ物がなんだとか、こういう癖があるだとかな。でもいくら夫婦であっても、お互いの使ってる言葉というのは本当に分かり合えるわけじゃない。でもやっぱり毎日お互いに気遣って相手が幸せになるようにするからこそずっと一緒にいられるわけやし、一緒にいたいと考えるんやろ? 
 このいくら人間は精神的な生き物であっても、物理的な接触によって幸せになれるという事実はまさに宗教にも示されていることやん。仏教やキリスト教でも生き物を大切にしろだとか隣人を愛せとかいう教訓はそういうことや。結局宗教っていうのはこういったことを伝えるための一つの手段であって、そういう意味では文学とかの学問となんら変わることがない。精神的な変動がない状態から俺のようにアップダウンの激しい状態に移る上で生まれてくる学問の一つっていうことができるよな。
 俺はこうやって話してることをちゃんと文章にする必要があると思ってる。こうやって考えた問題は文章化したり、映像化することによって、単なる青春とか思い出とかいったものから学問へと昇華させることができんねん。そういう意味で、書く力っていうのは他の能力と比べても圧倒的に大切なものや。人間のもっとも基本的な必要に答えるための手段やからな。また文章化することによって、後々にまで残すことができる。もちろん俺がかいた文章は俺にしか分からないもんやけど、それでもな。 
 お、頂上やで。あれやな、こういう景色みてると、今まで喋ってきたことはどうでもよく思えてくるな。幸せな時ってこういうこと絶対考えへんもんな。


If any of you has read the essay under 村上春樹, you might notice some similarlities. Indeed, the ideas in the essay comes from this story. 2004, June, MUN.