四年で得たもの

帰ってまいりました。帰るたびに自分というものが変わっているのを感じます。まず、人生で初めて(赤で)信号を渡ろうとして轢かれそうになりました。ばびった。

 あと何より一つ一つすることが楽しいです。携帯を買いに行く途中で見つけた小学校のサッカーを見ること、携帯ショップの店員と話すこと、帰りに芦屋で飯を食うこと、朝夙川沿いでQFTを読むこと、散髪の兄ちゃんと話すこと。生きることの喜びをかみ締めるということは、こういうことなのだろうなと感じます。一歩孔子に近づいたか、俺。結局散髪の兄ちゃんと夜のみに行きました。ビジネスマンにしよ、散髪の兄ちゃんにせよ、理論物理学者という自由人の僕にとっては違いはそうなく、人間を見れているのではないか、と思う。

 それは何より、最近は飯を食うことが大変な楽しみとなっています。やはりおなかは空かせてないと飯はうまくないし、量が多すぎるのもよくない。だから昼間に間食するのを極力控え、必要以上に量のある料理を頼むのをやめています。一番贅沢な料理ではなく、そのとき一番食べたい料理を、適度に。一人で、日本に帰国してすぐにうどんに向かうことや、ねぎとろ丼をかきこむのは楽しい。

 年をとるにつれ、確かに想像力は少しずつ失われてきているのかもしれない。小学生のころのように漠然としたものに憧れを抱くことはすくなくなってきた。しかしながら直感、本能に訴える喜びを得ることは遥かに多くなってきた。ある一節の音楽、一口の料理、一式の物理、一言の会話。極めて具体的な形でこれらは僕に喜びを運んでくれる。高校生のときのような漠然とした、女子高生への憧れ、といったものではない。この変化こそが大学四年間で得たものであるのであろう。たった四年間の間に得たものとしては、素晴らしいと思う。それは決して謙遜ではなくて。むしろ自尊であって。