そうか、そういうことだったのか。

 世の中には二種類の人間がいる。
お金や政治力などを追い求める人たちと、学問などの知的好奇心を満たす人たち。もちろん前者の人たちは「僕らはお金や政治力だけではなくて、それらの目的は他の目的とミックスされてるんだ」と主張するが、結局、ほしがっているものがなんらかの力であることには違いない。彼らはexplicitにはいわないが、力が最終的な目的へと変わってしまっている。彼らの理想は常に何らかの「力」によって形作られてしまっている。当初の目的がなんであったかは関係なく。手段が目的になり、目的が正当化の理由になる時。

 僕にはうまくこういう人たちが理解できない。時には僕は、こういった人たちに対して憎悪の念を抱くことがある。それは自分に力がないからか。その憎悪は妬みからくるものなのか。その可能性は決して否めない。人が自分勝手な人生を送っているのを見て、憎悪を感じるということは、自分とその人間との通過する道を重ね合わせているからだ。でも僕には妬みというより、彼らの無神経さ、後者の人たちを理解しようとしない態度に怒りを感じているのだとも思う。金を持ち、コミュニケーション能力に長け、女をもてあそび、政治力を振り回す人たち。科学の発展を知り、無邪気に知ることを求め、この場で、隣の人に、今自分が感じている興奮を共有してあげたいと考える科学者たち。この二種類の人間がお互いを理解しあうということはないのかもしれない。お互いに歩み寄ることができるのか。尊敬しあうことができるのか。それには何が必要なのか。話し合うことで理解しあうことができるのか。僕には常に政治家やビジネスマンの方が傲慢な態度をとるイメージがある。そうではないだろうか。力のないものをあざ笑う社会が日本やアメリカにはあるのではないか。

 僕と城口はそういう意味で不思議な組み合わせで仲がいい。ごっちにもでっかい人間になってほしい。力のある人間とアカデミアが手を組んだら何ができるのか。上の前者と後者の歩み寄りで何が生み出せるのか。またいつの日か、たけちゅうや坂本といった人間を理解することの必要もでてくるのかもしれない。彼らはどこまでアカデミアの世界を理解しようと努力するのか。そして僕はどうやって、彼らを理解し、会話をしていけるのか。

 政治家の尊敬を得るには僕自身がまず力を持つことが必要になってくるのかもしれない。力のない人間は存在するべきではない。そんな考え方を持っている人間と分かり合えるにはまずは対等の立場に立つ必要があるのかもしれない。ハーバードに入るのには社会との適合性を問われた。それを突破した僕は力を持つことができる素質はどこかに眠っているはずだ。僕が力を持たないのはアカデミアを選択したからでしかない。政治家はそんなbullshitを聞かない。力を持ってるか否か。お前は社会が動かせるのか否か。それだけ。本当にそれでいいのか。僕は本当にこれでいいのか。