文系科目と理系科目

 日本の社会ではよく文系と理系という仕分けが問題になることがあるが、僕が持論として持っている理系と文系というものを書いてみようと思う。昨日のすぎも との話もあるし、Qの弟が文系やけどな、というコメントに対する返信でもある。
 僕の考えとして色々分け方があるが、とりあえず文系科目、理系科目と呼ばれる学問体系としての分類を考えてみる。あくまで学問体系として、なのでアカデミックな文系科目という意味であるからビジネスなどは今のところ含めていないことに注意してもらいたい。(もしかしたら適応できる概念はあるかもしれないけども)
 僕の考えでは、理系科目とは、「一般的にその学問の裏にあるモチベーションが各個人で共通している科目。また、同時にその学問の目標として人間存在における共通項を探そうという試みである。」モチベーションというのは、その学問を使って何がしたいのか、ということである。例えば数学を例にとれば、数学とは、人間において、「絶対的」(相対の反対語として)なものは何かと問い詰めたとき、公理から出発する学問が各個人により共有されるため、「絶対的」であるといえることから始まるものだといえる。他人と何を共有するか、という問題は人間の倫理としてもとても大切な問題で、結局的には二人の異なる人間は何も共有しないのだ、という極論に至るのも難しくはない(僕の村上春樹、もしくは物語?などを参照)。その中で数学という公理に基づく哲学が全人類に共有されるというのは驚くべきことである。この数学は目標が「共通項」探しであるという点において、理系科目といえる。また、数学はモチベーションを理解すればその体系も理解しやすい。例えばmetricという概念を捉えたとき、それは「距離」という概念の一般化である。なぜそのように距離というものを一般化する必要があるのかと考えてみよう。僕らの知っている距離はEuclidean Spaceに存在するものであり、Einstenが考えたGeneral relativityの住むnon-Euclidean Spaceはまた違った「距離」で記述される。すなわち、実は僕らの住む世界は普通に二つのポイントを定規で測る距離以外に、もっと違った距離概念によって構成されているのだ。とすれば数学でことなった距離概念というのを考えてみるモチベーションは明らかである。すなわち、数学者、物理学者は一応にして、「距離概念を一般化する」というモチベーションの元にその分野を勉強している。ここには一般的にいって大きな意見の違いは生じない。
 次に文系科目を考えてみると、理系科目とはほぼ正反対の「その学問のモチベーション、目標は各個人にユニークなものであり、そのユニークさゆえに学問というメディアによって表現することを必要とされるもの」と考えている。例えば僕にとっての文学というのは、僕とは基本的には他人とは同じ存在ではない(むしろ共有しているものは皆無に等しい)(村上春樹、物語?参照)ために、僕が他人と何かを共有する必死な試みである、と捕らえている。(ちょっとこれでは言葉が足りていないが、まぁ、そんな感じ)それと同時に、文学として表現されたものは、「文系科目」として存在するため、各個人によって勝手に解釈されるべきであり、各個人が自分なりの解釈で楽しむことのできるものであれば、(そしてともすれば僕のいわんとしていることがそれを通じて伝えることができれば)何よりも僕にとっては嬉しいことである。これが僕の文学に対する態度。それは僕にとってユニークであり、そしてそのために僕は自分自身で何かしら文章を生み出し、みんなに読んでもらう必要があるわけだ。 
 こうやって文系科目と理系科目を捉えてみるとそこには嗜好の違いが存在するのがわかる。でも両方好きでいてはいけない理由などない。僕が大切だと思うのはどちらにしても、具体的な「もの」(例えば数学だったらMobius RingのOrientationについて、だとか、文系だったら、中国の南京問題について、など)について話し合うだけの知識と思考能力がなければ二人の人間は意味のある会話をなすことができないんじゃないかと思う。ビジネスにせよ、話を聞いてすぐさま、自分のできる能力(例えばプログラミングだとか、中国語が使えるだとか)を考え、こんなことしたら面白いんじゃないの、という提案ができるところから始まるべきだと思う。(対等な人間として)
 もちろん対等な人間として話ができないことはよくある。例えば僕が灘でよく話をさせられるが、僕と後輩の関係は対等にはない。でも僕が話してあげたい、と思うのはいつの日か、対等な立場に立って、なんらかの形で一緒に話がしたいと考えているからだ。僕も僕に対して一生懸命話してくれる教授だとかと、一つのトピックでもいいから対等な立場に立って話ができるよう、一生懸命勉強しているわけなのだ。]]