Reality?

 僕がMITに行った時、出会ったMITの生徒は言っていた。「なぜ人はみな幸せになれないかって?もしみんなが幸せであれば、人はそれを幸せとは思わないように進化するからだよ。」僕も似たようなことを考えたことがある。しかし、なぜ男の子がみなハンサムでとってもかっこよくなって、そして女の子はとてもかわいく、美しくなってお互いに笑いあうことができないのだろうという疑問は消えなかった。いや、それは疑問ではない、それは単に僕がこの世界があまりにもみじめで、不都合な場所であるように感じているだけのことなのだ。なぜみんな幸せになれないのか?なぜみんなが楽しく暮らしていけないのか?僕はこの事実に切実なもの悲しさを感じる。
 しかしこの事実が何物にも代えがたいほど確固たるものであり、さらには、MITの友達が言っていたように、むしろ世界がその事実を立証するように動いているかのごとく思えるほどの事実であるからこそ、僕らは、その事実に対する考察ではなく、その事実への対処法を切に求め、具体的に実行に移していくべきではないのか?すなわち僕らは、お互いがなかなか理解し得ない存在であり、お互いはとても幸せになれるとは限らない存在であるからこそ!僕らは人間として、お互いを尊重しあい、お互いを思いやりあい、そして相手をできうる限り幸せにしてあげようと、心がけ、生きていくべきなのではないか?それは本当は、実に些細なことである。ちょっとした気遣い、ちょっとした言葉遣いが一人の人間を幸せの絶頂にまで、そうまさにその絶頂にまで、連れて行くことができるという事実を一体何人の人が知っているだろう。そして同時にその意味で、人を愛するということは素晴らしい。誰かを愛することができれば、その人は、実に多大な幸せ、もし幸せというものが数量化することができればの話だが、を相手のわずかな言動から得ることができる。そして何より、その愛された人間は、その相手に多大な幸せを、たった一言によって生み出すことができる! 僕らは貪欲で、進化していく生き物かもしれないが、その幸せを生み出す、受け取る一瞬は、時間というものの制限のおかげで(そう、僕ら人間は時間をネガティブなものとして受け取る癖があるが)その幸せを進化のために衰退させたり、我々がより多くを求める暇を与えず、より「美しいもの」へと変えてくれるのだ。
 あぁ、でもこの思いを、この考えを誰とも共有できないことといえば! 
 何度も回想するに、その共有できないことの苦しみ、悲しさ、孤独さこそが、芸術というものを生み出したのではないか?僕はあいにくながら、音楽にも精通していないし、絵画にも疎い。しかしながら、多少なりとながら、文学というものと親しんでいる人間として、これらのメディアは僕らが「Reality」なるものを、僕らと他人との間に構築し、確立しようとする、実に非合理的な、しかしながら最も成功を見たものではないかと考える。いや、僕らがそれらを成功と思うのは、単にそれらの作品が多くの人間によって共有され、そして賞賛されることによって、僕らと他人との間の「Reality」が広がったと考えるからであって、本当にそうなのであろうか?いや違う、僕らは作品という実に抽象的な形式ならば、違った次元での解釈が可能であるし、そのためには「reality」の共有は真に必要とはされていないのではないだろうか?